第1章 大人の恋(9)
2002年5月29日 久しぶりの高井と二人きりの食事だったのに、なんであんなことを言ってしまったんだろう。そもそも、なんであんなことを聞いたりしたんだろう。
送るよ、という高井の申し出を断って、一人でぼんやり駅から家への道を歩いた。街灯の灯りに照らされた街路樹の薄い影を踏みながら、いつもより大股で歩く。
「実紀の話はあまり聞きたくないでしょ?」
高井と遥が初めて秘密を持ってしまった日から3回目のデートで、高井は彼にしては珍しく少し顔を曇らせ、遠慮がちに聞いてきた。いつもどおり明るく実紀の名前を口にした遥に、一瞬答えに困った顔をして、問いには答えずにあえてそう切り出したのだ。
遥は、実紀の名前を口にしたときに微妙な乱れを生じた鼓動と呼吸が、思いがけずさらに大きく乱れるのを感じた。一瞬、息が苦しくなって、頭の中に大きく心音が響き出す。
「…どうして?」
つとめて平然と、さも意外な様子で聞き返してみたものの、どうしても声には緊張感がこもってしまった。高井は気づいただろうか。
「どうしてって、俺と実紀の話を聞いて、楽しくはないでしょう」
珍しく、高井はひどく困った顔をしていた。その顔を見て、遥は自分でも驚くほどに傷ついた。こんなことで、私に困って欲しくなんかないのに。どうして実紀さんに困らないで、私に困るの。
「…でも、ほら、口裏合わせっていうのかな、少しは聞いておかないと何かあったとき困るかもしれないし」
「そうか」
短く言って、高井はそのときそれ以上何も言わなかった。遥も、押し黙ってぬるくなったビールを口に含んだ。
もちろん、遥次第で実紀の名前を禁句にすることも出来たのだけれど、なんだかそうでないほうがいいような気がした。…違う、名前が出ないことが怖いのだ。二人の間で名前が出る。話題にのぼる。高井の反応を探る。知る苦しみと知ることのできない不安を天秤に掛けて、前者を取っただけなのだ。
自分で選んだことなのに、なぜこんなに苦しいのだろう。大人の恋は、苦くて悲しい。自分で選んで自分で傷ついて、自分を責めて、大人の恋は、なんてエネルギーを消耗するんだろう。
奇妙なくらい鮮やかな色があふれた缶ジュースの自動販売機が、無駄にまばゆい光を放っている。その非現実的なまぶしさに目を細めながら、早く家に帰ってゆっくりお風呂に入りたい、と遥は思った。
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秘密メモ。
↓
返事遅くていまさらですが。
>うずらいちょうさん、おぼろさんへ
送るよ、という高井の申し出を断って、一人でぼんやり駅から家への道を歩いた。街灯の灯りに照らされた街路樹の薄い影を踏みながら、いつもより大股で歩く。
「実紀の話はあまり聞きたくないでしょ?」
高井と遥が初めて秘密を持ってしまった日から3回目のデートで、高井は彼にしては珍しく少し顔を曇らせ、遠慮がちに聞いてきた。いつもどおり明るく実紀の名前を口にした遥に、一瞬答えに困った顔をして、問いには答えずにあえてそう切り出したのだ。
遥は、実紀の名前を口にしたときに微妙な乱れを生じた鼓動と呼吸が、思いがけずさらに大きく乱れるのを感じた。一瞬、息が苦しくなって、頭の中に大きく心音が響き出す。
「…どうして?」
つとめて平然と、さも意外な様子で聞き返してみたものの、どうしても声には緊張感がこもってしまった。高井は気づいただろうか。
「どうしてって、俺と実紀の話を聞いて、楽しくはないでしょう」
珍しく、高井はひどく困った顔をしていた。その顔を見て、遥は自分でも驚くほどに傷ついた。こんなことで、私に困って欲しくなんかないのに。どうして実紀さんに困らないで、私に困るの。
「…でも、ほら、口裏合わせっていうのかな、少しは聞いておかないと何かあったとき困るかもしれないし」
「そうか」
短く言って、高井はそのときそれ以上何も言わなかった。遥も、押し黙ってぬるくなったビールを口に含んだ。
もちろん、遥次第で実紀の名前を禁句にすることも出来たのだけれど、なんだかそうでないほうがいいような気がした。…違う、名前が出ないことが怖いのだ。二人の間で名前が出る。話題にのぼる。高井の反応を探る。知る苦しみと知ることのできない不安を天秤に掛けて、前者を取っただけなのだ。
自分で選んだことなのに、なぜこんなに苦しいのだろう。大人の恋は、苦くて悲しい。自分で選んで自分で傷ついて、自分を責めて、大人の恋は、なんてエネルギーを消耗するんだろう。
奇妙なくらい鮮やかな色があふれた缶ジュースの自動販売機が、無駄にまばゆい光を放っている。その非現実的なまぶしさに目を細めながら、早く家に帰ってゆっくりお風呂に入りたい、と遥は思った。
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秘密メモ。
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返事遅くていまさらですが。
>うずらいちょうさん、おぼろさんへ
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