プロローグ(3)

2002年5月16日
「実紀さん、今日どんなのつけるんですか?」
「今日は真珠だって。このドレスの色といい、もうすっかり春だよね」
 二人がお互いのドレスを見比べていると、メイク室のドアが開き、メイク担当の杉崎香織と連れだって高井が入ってきた。
「始めるぞー」
 ばたばたと足音がして、次々と人が出入りし始める。何人ものモデルたち、メイク係、衣装係、小物係、舞台や音響の担当者。あっという間にメイク室が戦場になる。
 遥は、まっすぐ鏡に向き直ると、一つ大きく息を吐いた。自分の中で意識がはじけ、視界が大きく開いて、体中に熱くて甘いオーラが満ちるのがわかる。世界に意味のある色がつく。この瞬間が一番好きだといつも思う。限りなくモノクロに近かった「日常」が、一瞬だけ遠くなる。
 気流に乗るように高揚してゆく気持ちを感じながら、鏡の中の創られていく自分を見ていた遥は、ふと、体の一部にささくれのように残る苛立ちを感じて、一瞬我に返って空(くう)を見つめた。心臓の音がやけに大きくなった気がした。頭の中ににぶく反響する心音と、心臓を素手で掴まれたような痛みと息苦しさ。心臓だけが、遥を現実につなぎとめようとしているのだと思った。
 いつもいつも、私はどうしてあんなに自虐的になってしまうのだろう、と心の中でつぶやいて、遥はそっと他人に気づかれないほどの薄さでため息をもらした。いつも、しなくてもいいかもしれない我慢をして、感じなくてもいいはずの不安を感じ、見たくないものを見て、聞きたくないことを聞き、どうしてそんなことをしているのだろう。いつの間にこんなに、ふりをするのが得意になったのだろう。嘘をつくのも。
 …違う、仕方がないのだ。だって大人の恋なんだから。大人の恋でなくちゃいけないのだから。私はもう大人になったのだから。本当に?…本当に。
 半ば強引に自分の考えに決着をつけると、遥は鏡の中の自分ともう一度まっすぐに向き合った。さっきまでの自分はもうそこにはない。いろいろなものが昇華するように消え去って、私はもう、私であって私でないものになっていく。
 もうすぐ舞台の幕が開く。

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