一休み中。

2002年6月24日
一休み(にしては長すぎ)中です。

まずはPCがダウン。
ついで、本人がダウン。

当然、お話なんか書けるわけもなく。
トウキョウ必要倶楽部も休部状態なワケです。

皆さま、忘れないでください...(泣)。

 久しぶりの高井と二人きりの食事だったのに、なんであんなことを言ってしまったんだろう。そもそも、なんであんなことを聞いたりしたんだろう。
 送るよ、という高井の申し出を断って、一人でぼんやり駅から家への道を歩いた。街灯の灯りに照らされた街路樹の薄い影を踏みながら、いつもより大股で歩く。
「実紀の話はあまり聞きたくないでしょ?」
 高井と遥が初めて秘密を持ってしまった日から3回目のデートで、高井は彼にしては珍しく少し顔を曇らせ、遠慮がちに聞いてきた。いつもどおり明るく実紀の名前を口にした遥に、一瞬答えに困った顔をして、問いには答えずにあえてそう切り出したのだ。
 遥は、実紀の名前を口にしたときに微妙な乱れを生じた鼓動と呼吸が、思いがけずさらに大きく乱れるのを感じた。一瞬、息が苦しくなって、頭の中に大きく心音が響き出す。
「…どうして?」
 つとめて平然と、さも意外な様子で聞き返してみたものの、どうしても声には緊張感がこもってしまった。高井は気づいただろうか。
「どうしてって、俺と実紀の話を聞いて、楽しくはないでしょう」
 珍しく、高井はひどく困った顔をしていた。その顔を見て、遥は自分でも驚くほどに傷ついた。こんなことで、私に困って欲しくなんかないのに。どうして実紀さんに困らないで、私に困るの。
「…でも、ほら、口裏合わせっていうのかな、少しは聞いておかないと何かあったとき困るかもしれないし」
「そうか」
 短く言って、高井はそのときそれ以上何も言わなかった。遥も、押し黙ってぬるくなったビールを口に含んだ。
もちろん、遥次第で実紀の名前を禁句にすることも出来たのだけれど、なんだかそうでないほうがいいような気がした。…違う、名前が出ないことが怖いのだ。二人の間で名前が出る。話題にのぼる。高井の反応を探る。知る苦しみと知ることのできない不安を天秤に掛けて、前者を取っただけなのだ。
 自分で選んだことなのに、なぜこんなに苦しいのだろう。大人の恋は、苦くて悲しい。自分で選んで自分で傷ついて、自分を責めて、大人の恋は、なんてエネルギーを消耗するんだろう。
 奇妙なくらい鮮やかな色があふれた缶ジュースの自動販売機が、無駄にまばゆい光を放っている。その非現実的なまぶしさに目を細めながら、早く家に帰ってゆっくりお風呂に入りたい、と遥は思った。

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秘密メモ。

返事遅くていまさらですが。
>うずらいちょうさん、おぼろさんへ

 高井の好物、鶏の入った大根の煮物をつつきながら、遥はふと思いついたことをそのまま口にしてみる。
「高井さん、いつから私のこと名前で呼ぶようになったんだっけ」
「いつからだったかなあ。『向井さん』ていうよりも『遥』のほうが断然似合ってるからね」
 だけど高井は、人前では今も間違うことなく確実に、こともなげに「向井さん」と呼ぶ。似合ってると思うなら、いつも「遥」って呼べばいいのに。…とは、口には出さずに心の奥に沈める。だってこれって、大人の恋のルールのひとつなんでしょう。
「実紀さん、相変わらず仕事忙しそうね?」
 箸で刺した大根を目の前でゆっくり回転させながら、遥はぼんやりとした口調で聞いた。
「そうだな。あいつは、手を抜けない性格だから。やりたいこともはっきりしてるし」
「私とは違うね」
 小さくつぶやくように言って、少しだけ言ってしまったことを後悔し、遥は慌ててよく味のしみた大根を頬張った。高井に触れている右肩に全神経を集中して気配を感じ、高井の変化を探ってみる。でも、いつものように高井は何一つ変わることなく、何の反応も無くて、だからその変化の無さに私だけが苦しい。
「遥と実紀は違うよ」
 一言だけ言って、艶やかで透明な酒を飲み干した高井は、いつもと変わりなく穏やかな横顔だった。
 途端に遥は絶望的に後悔してうつむき、なかなかのどを通らない熱い大根が苦しくて、薄く涙を浮かべた。


 ショーモデルという言葉に乗せられたわけではない。きれいなドレスに惹かれたわけでもない。穏やかな高井の言葉は、それでいて彼の熱意や理想を強く物語っていて、それが言葉という形を超えて遥の中に染み入ってきたのだ。穏やかだからこそ、無駄がなく、より強くストレートに感じ入ってしまうのかもしれない。
 この企画の趣旨に賛同し、このジュエリースギサキの社員であることに誇りを持ち、ジュエリーを愛している、若い人材の起用を目指しているのだ、と高井は言った。ドレスを着てみたい、高価なジュエリーを身につけてみたい、そんな人は必要ない。それならモデルクラブの二流モデルでいい。
「何より向井さんは、今はまだちょっと力を温存しすぎている。まだまだ本領発揮できる余力が残っているでしょ」
 にっこり笑って最後にそう言われたときには、遥は本当に何も言えなくなってしまったのだ。その瞬間、きっと自分は、心から途方に暮れた顔をしていたと思う。自分の表情の間抜けさが目に見えるようで、思わず笑ってしまったくらいに。
でもこの時、同時に、この人のために頑張ってみたい、と思ってしまったのだ。この人の、何事にも逆らわないようでいて何事にも流されず、ひとときも変わることのない、この独特の空気が持つ居心地のよさに触れていたい。この人と一緒に仕事ができたら、こんなふうに仕事と向き合うことが出来たら。
 それは、豊かな水をたたえた川の流れのように遥の人生を押し流して、ゆっくりと方向を変えさせるような、大きな力だった。けして急激なものではなかったけれど、ゆったりと抗いがたく、いつのまにかもと居た場所から離れている自分にある日気づくような、そんな流れなのだった。

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秘密メモ。[ぼやき。]
  ↓

「私はこう見えてもこの会社が大好きなんですよ。この会社や、この会社が扱っている商品が好きで、もっとたくさんの人に見てもらいたい、っていつも思ってるんです。で、こう思っている社員が私以外にもたくさんいるとしたら、その社員に協力してもらえばいいだけのことじゃないですか。一石二鳥。一石三鳥かな。簡単なことですよねえ?」
「…は?」
「ショーだって、うちの社員を使えばいいじゃないですか、幸いうちはジュエリー会社で、きれいな女性社員がたくさんいるじゃないですか、ってね」
 思わず目を見開いたまま話を聞いていた遥は、目の前で明るい笑顔で頬杖をついている男の顔を見ながら必死で頭をフル回転させた。まさに、普段滅多には使わないようなスピードで。そして当然行き着くべき答えに行き着き、思わず椅子から身を浮かせて声をあげてしまった。
「それで私ですか?!」
「そうですよ」
 あっさりと言ってのけた高井に対して、遥は言葉を失ってしまった。確かに部長からショーモデルとは言われたけれど、そんな本格的なショーだったとは。ちょっとジュエリーを身につけて見せて、1、2回写真でも撮るような程度かと思っていた。この私が、ショーの舞台へ? モデルクラブのモデルの代わりを?
「大丈夫ですよ。今いろいろ話をさせてもらって、私にはよくわかりましたから。向井さんなら大丈夫だと思います」
「なんでそんなことわかるんですか!」
「わかるんですよ。皆に言っているわけじゃない、ちゃんと落選の方もいらっしゃいます。でも向井さんにはぜひ来てもらいたい。どうですか、やってみませんか」
「私には絶対に無理です」
「できますよ。気取る必要はなくて、そのまま出てくれればいいんだから」
「なおさら無理ですっ」
 …しかし、10分後、不毛な押し問答を繰り返した末に、遥は「ついうっかり」高井に乗せられてショーモデルを引き受けてしまった。

 面接は、話題こそそれなりに的外れなものではなかったけれど、まるで面接らしい雰囲気ではなく、ただ「話しをしましょう」と言った高井の言葉どおりに力の抜けた会話で時間が過ぎていった。会社に入社するまでの学生生活のこと、この会社に就職したいきさつ、日々の仕事の中で思っていること、ジュエリーについて。休日の過ごし方は?
 高井に促されるまま、なんとなく吸い込まれるように話をしながら、遥は時々、私はどうしてこんな話をしてるんだろう?と心の中で疑問符を浮かべていた。それでも、高井の相槌は適切で、テンポは心地よく、居心地の悪さはまったくなかった。むしろ居心地がよく、この人が企画宣伝部長一押しのやり手と言われることがなんとなく理解できた気がした。
 15分ほど経過したところで、高井は不意に、何気なく、唐突に本題に入った。
「最初に上から呼び出されて今回の企画のプレ会議をやったときに出た意見の大半はね、よくどこかの結婚式場やデパートで催されているような展示会やブライダルショーみたいなものばかりだったんですよ。そこそこのモデルクラブかなんかからモデルを呼んでね。でもそんなのはまったく新たな企画には値しないものだし、そこら中にあふれていて面白味もない、興味もそそられないでしょう」
「そうですね」
「でも、従来と違った趣向にすればするほど、資金がかかるでしょう。予算がそんなに取れないからあまり大きな企画はできないから仕方ないんだ、って言われたんですよ。だったら、と考えたんです」
「はい」
 遥が心から相槌を打ち、思わず身を乗り出すと、高井は満足そうに自分も身を乗り出し、子供のような目をして続けた。

 そう前置きしてから、ふと真顔で遥の顔を見やって、高井は小さく吹き出し、それから遠慮なく屈託ない笑い声をあげた。印象はいたって穏やかで、何もかもがのんびりしているのに、なんて表情の変化の豊かな人なんだろう、と遥は思った。
「そんなにかまえる必要はないですよ。面接と思わないでください。就職試験というわけでもないんだし、ただ私と話をしに来たと思ってもらえればいい」
 そんなつもりはなかったけれど、高井から見たこのときの遥はかなり緊張していた、あるいは、この男は一体何者なんだろうというような警戒心にあふれた表情をしていたらしい。
 遥は頷いて、小さく息を吐くと、改めて椅子に座り直して姿勢を正した。
「なぜ自分が、って思いませんでしたか?」
「思いました、もちろん。事情を全く説明していただけなかったので、よけいに。うちの部の部長には、少しでも興味があるのならここへ来るようにと、それしか言われませんでしたが、それは高井さんの指示なんですか?」
「ああ、そうです。どれだけよく説明しても、どうしても人を介せば話は正確に伝わらないでしょう。今回の企画に関しては、微妙なニュアンスまでよく伝えて話し合って、納得して参加してくれる人を採用したいんですよ」
 遥は黙って大きく頷いてみせた。
 高井の声は、遥の耳にするりとなめらかに入ってくるようだった。しかも、高井の声のせいなのか仕事の魅力のせいなのか、いつの間にかそれらの発するエネルギーに惹かれて高揚していく自分がいた。しかし、そんな自分をどこからか冷静に眺めているもう一人の自分も存在していて、さっきまでとはうって変わった妙に落ち着いた気分になっていた。
 高井という男には、向き合った人の警戒心を解かせ、いつのまにか話に引き込まれてついうっかり肩の力を抜いてしまうような、不思議な力があるようだった。

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秘密メモ。

 しかし、簡単なサイズ合わせと色合わせをし、数点の中から一番似合うと思われた純白の細身のドレスに着替えて、いざ、隣接する面接会場の小会議室へ続くドアを開けた時、遥はまず面食らってしまった。そこには、高井が面接官としてたった一人で座っていたのだ。企画宣伝部長以下、総勢何名がこの中にいるのかと大いに緊張しながらドアを開けたというのに、先ほどの一押しのやり手にはちっとも見えない高井が、一人で座っているとは。
「ああ、さきほどはどうも。向井さんでしたよね」
 そう言って、遥に自分と向かい合って座るよう指示すると、高井は、面食らっている遥に気づく様子も無く、挨拶もそこそこにさっさと今回の企画についての説明を始めた。
 いざ話が始まって、遥はいささか唖然とした。その座り方や醸し出す態度、仕草や言葉、その全てが、さっきの男とはまるで別人なのだ。
 販売促進と新たな顧客層の獲得をねらって定期的なジュエリーショーを開催するということ。その企画運営は、全て自分に一任されているということ。会議やプレゼンに慣れた感じが、手にとるように伝わってきた。
 しかし高井はまるで、今自分がしている説明はまったく表向きのもので、言わされているのだ、とでも言うように事務的に話し、あっという間に話し終えてしまった。そして一息つくと、顔をあげてまっすぐに遥を見据え、子供のような明るい目をして声色を一変させた。
「今回の企画の大枠は今お話ししたとおりです。さてと。上の考えや経営戦略ということでは、また別の観点から見なくてはいけない点もあると思うんですが、ここからは私個人の考えとして話をしますので、そのつもりで聞いてください」

 遥が高井と出会ったのは、部長からのいまいち釈然としない打診を引き受けて打ち合わせに訪れた、企画宣伝部の会議室だった。総務部で社内の雑務をしているので、高井佑輔という名前には見覚えがあり、期待の若手だという噂も聞いたことがあった。
 しかし、初めて高井を見たとき、遥にはそれが高井だとわからなかったのだった。サイズを計ったり衣装を合わせたりしているモデル候補の社員やスタッフが大勢立ち歩く会議室の中で、高井は思っていたよりも若く見え、思っていたよりもやり手には見受けられなかった。噂から勝手なイメージを抱いていた遥は、たまたま高井が目の前にいたにも関わらず、どの人が高井さんだろう、と騒然とする会議室を見回していたのだ。
「…かいさん!」
 その時不意に名前を呼ばれて我に返り、はいっ、とあわてて小学生のような声で応えたその返事が、隣りに立って周囲を見回していたその男と重なって、遥は思わず反射的に顔を見上げた。大声で名前を呼んだ女性は、カラフルなシャツとジーンズに小柄な身を包み、首からメジャーをかけ、まち針を手に小走りで近づいてくると、
「あれ? ごめんなさい、高井さんってお二人いらっしゃるんですか?」
 恐縮した様子で二人の顔を交互に見る女性を前に、二人はもう一度顔を見合わせてしまった。
「きみも高井っていうの?」
「いえ、ごめんなさい、私は向井といいます。聞き間違えちゃったみたいで…、ごめんなさい」
「あやまることなんかないですよ。なるほど…、たかい、むかい、か。確かに似てるなあ。うん、似てるねえ」
 妙に納得した表情で何度も頷き、ははは、と文字になるようなのん気さで笑いながら、高井は彼を呼びに来た女性と一緒に部屋の奥へと歩いていってしまったのだが、そのマイペースな口調や歩き方や表情は、その人が高井だとわかったあとも、遥の中のイメージとはほど遠いように思えた。
 高井佑輔って、企画宣伝部長一押しのやり手って言ってなかったっけ? ちっとも忙しそうに見えないけど、今回の企画の責任者じゃなかったっけ?

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秘密メモ。
[おぼろさんへ。]
 ↓
 前を歩く高井の背中をぼんやりと、その体の向こう側を透かし見るような視線で追いながら、遥は少し歩みをとめてみた。高井の背中が少しずつ遠ざかり、人混みの中でかすみそうになって、なんだかひどく小さく見える。隣りを歩く高井と遠くから眺める高井は、いつも別人のような気がする。
「遥? どうした?」
 気づいて振り返った怪訝そうな顔。
 その顔を見つめてゆっくりと微笑んでみせながら、なんでもない、と答える。そう、なんでもない。大人の恋なんて、なんでもないことばっかりだ。…「なんでもないことにしなくちゃいけないことばっかり」。
 再び横に並んだ遥を少し目を細めて見やると、高井はいつもとおなじ穏やかな声で言う。
「しかし遥も、ずいぶんとモデルらしくなってきたな」
「どうしたの、急に」
「今日ショーを見ながら、抜擢した甲斐があったなと思って、満足させていただきました」
 ふふ、と小さく笑って、遥はわざと視線を宙に泳がせた。こんな時の高井が必ず遥の反応を見つめていることを、十分に知っているのだ。表情の変化の一つも見逃さないようにしているかのような静かな深い目で、高井は必ず遥を見ている。
 ショーを無事終え、実紀は仕事へと戻っていった。遥は残業などすることは滅多にないので、ショーのある日は大抵会場から直帰だ。高井と久しぶりに食事でもしようということになって、遥の自宅に比較的近いターミナル駅まで移動し、雑然とした人の流れの中を逆らうことなく歩きながら、ゆっくり店を探しているのだった。
 今日は久しぶりに和食が食べたい、という高井の希望で、品のいい小料理屋に入った。こぢんまりとした店内の柔らかな艶のある木製のカウンター席に並んですわり、遥は少しほっとした。高井の空気をすぐ横に感じているのは好きなのだけれど、向かい合うのはどうしても苦手なのだ。穏やかにまっすぐな高井の視線は、正面から向き合うには静かすぎると思う。曖昧さが無さ過ぎて、ついいつも目をそらしたくなってしまう。

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秘密メモ。
[久しぶりに真面目にお話を書いていて、発見したこと。]

ひとやすみ その壱

2002年5月17日
プロローグが終わり、ちょっとひとやすみ。
...って、もう?!と言われそうですが、まったくそのとおりですね(^^;)。
こんなんでこれから先続くのかなあ〜、と一番思ってるのは本人ってウワサも...。

いやいや、頑張りますよっ。
私には、ずっと言えなかったことがたくさんあるから。

2年半前、彼女のいる人をそうとは知らずに好きになってしまいました。それからずっと、すごく苦しくて悲しいことがたくさんありました。
自分がココロから「私にはこの人が必要だ」って思ってしまった人に、同じように必要とされるようになるまで、長い日々でした。
そして今日の私があります。

でも...、自分で選んだことだから恨み言は言えないんだけど、でもやっぱり、ここへ来るまでつらかった!
いっぱいいっぱい泣いたし。
だから、遥ちゃんには私の言えなかったことを言わせてあげたいと思います。

以前からたまーに下手の横好きでお話書いていたけど、こんなふうに人様の目に触れるのは実は初。どきどきもんです。
なので、きついお叱り含め、いろんな方からコメントもらって、少しでも学びたいなぁ。
そりゃまぁ、ちょっとやそっとで変わるもんじゃないかもしれないけど、ココロはいつも前向きにいかんとね(笑)。

--トウキョウ必要倶楽部 部員募集中♪--

プロローグ(3)

2002年5月16日
「実紀さん、今日どんなのつけるんですか?」
「今日は真珠だって。このドレスの色といい、もうすっかり春だよね」
 二人がお互いのドレスを見比べていると、メイク室のドアが開き、メイク担当の杉崎香織と連れだって高井が入ってきた。
「始めるぞー」
 ばたばたと足音がして、次々と人が出入りし始める。何人ものモデルたち、メイク係、衣装係、小物係、舞台や音響の担当者。あっという間にメイク室が戦場になる。
 遥は、まっすぐ鏡に向き直ると、一つ大きく息を吐いた。自分の中で意識がはじけ、視界が大きく開いて、体中に熱くて甘いオーラが満ちるのがわかる。世界に意味のある色がつく。この瞬間が一番好きだといつも思う。限りなくモノクロに近かった「日常」が、一瞬だけ遠くなる。
 気流に乗るように高揚してゆく気持ちを感じながら、鏡の中の創られていく自分を見ていた遥は、ふと、体の一部にささくれのように残る苛立ちを感じて、一瞬我に返って空(くう)を見つめた。心臓の音がやけに大きくなった気がした。頭の中ににぶく反響する心音と、心臓を素手で掴まれたような痛みと息苦しさ。心臓だけが、遥を現実につなぎとめようとしているのだと思った。
 いつもいつも、私はどうしてあんなに自虐的になってしまうのだろう、と心の中でつぶやいて、遥はそっと他人に気づかれないほどの薄さでため息をもらした。いつも、しなくてもいいかもしれない我慢をして、感じなくてもいいはずの不安を感じ、見たくないものを見て、聞きたくないことを聞き、どうしてそんなことをしているのだろう。いつの間にこんなに、ふりをするのが得意になったのだろう。嘘をつくのも。
 …違う、仕方がないのだ。だって大人の恋なんだから。大人の恋でなくちゃいけないのだから。私はもう大人になったのだから。本当に?…本当に。
 半ば強引に自分の考えに決着をつけると、遥は鏡の中の自分ともう一度まっすぐに向き合った。さっきまでの自分はもうそこにはない。いろいろなものが昇華するように消え去って、私はもう、私であって私でないものになっていく。
 もうすぐ舞台の幕が開く。

プロローグ(2)

2002年5月15日
「実紀さん!」
「…遥ちゃん? 久しぶり!」
 彼女にしてはのんびりと優雅に振り返って、それからくっきりと微笑んだ谷口実紀は、営業部所属で遥の二年先輩にあたる。キャリアウーマンという言葉の似合う、知的な美しさのある女性で、遥同様ショーモデルをしている社員の一人だ。
 しかし、総務部でお茶くみや事務仕事を日々こなすだけの遥とは違い、実紀は大手顧客も相手にする営業部第一課の総合職だ。毎週ほとんどショーに出る遥と違って月に一度か二度という頻度ではあるが、それでもいつも山積みになった仕事を無理に調整して参加しているように見える。そんな実紀がどうしてこのショーモデルを引き受けることになったのか、遥は以前から不思議でならなかった。一度たずねたことはあるのだけれど、何気なくかわされてしまったのだ。それは多分、このショーの企画担当者である高井佑輔に関係していることなのだろうけれど…。
「あっ、それ、高井さんとの写真でしょう?!」
 さりげなく写真の束を伏せた実紀の手の動きに気づいて、遥は、声をひそめながらも努めていたずらっぽい口調でそう言い、実紀の隣りの椅子に腰掛けた。否定せず目だけで笑ってみせた実紀の顔をのぞき込むと、左胸の、心臓のあたりの小さく絞るような痛みに気づかないふりをしながら、遥はさらに身を乗り出す。
「隠したって無駄ですよぉ。今ちらっと高井さんらしき人が見えちゃったもん。何の写真ですか?」
「…この間ね、大学の時の仲間の結婚が決まったものだから、お祝いを兼ねて久しぶりに集まったのよ。その時の写真、皆の分を焼き増ししたらすごい枚数になっちゃって」
 苦笑しながら、観念したように写真の束を表に返すと、実紀はそれを少し遥の方へと向けてずらしてよこした。
 そこには、三人ずつ、六人の男女が写っていた。高井と実紀以外は、遥の知らない顔ばかりだ。誰かの家の居間で、簡単なパーティーといった様子。もちろん主賓の二人を写したものが一番多かったが、高井と実紀が並んで座っている姿も何枚か写っていた。
「へえ…。お似合いですよねえ」
「でしょ? ずっと付き合ってたのになかなか結婚しなくてね、周りの方がイライラしてたんだけどね」
 …主賓じゃなくて、高井さんと実紀さんなんだけど、と思いながら、あえて訂正はせずに曖昧に微笑んで、遥は写真の束を実紀に返した。

プロローグ(1)

2002年5月14日
 向井遥は週に一度、ドレスを着る。
 成り行きで始まった週一回だけのシンデレラ。でもそれは、今となっては彼女を支える大切な時間になっている。
 遥が高井佑輔と出会ったのは、純白のドレスに初めて身をつつんだ日のことだった。圧倒的なスピードで過ぎ去っていくそれからの日々を、のちに私はどんなふうに思い出すことになるのだろう?…ふと我に返って考えてしまうほど、今までの自分の人生の中で一番早くて強引な流れが、遥の背中を押し続けていた。流れに足をとられないことだけを考えているうちに、深く感慨に耽る間のないめまぐるしい毎日が過ぎていく。

「うちの商品のショーモデルをやってみないか?」
 最初に部長から告げられたとき、遥は一瞬ぽかんとして、それから思わず苦笑し、何の冗談ですかと言いながらさっさと自分の仕事に戻ろうとした。
 そのころの遥は、ジュエリー会社のいわゆる「普通の」OLで、九時に出社して六時に退社し、夜は友人達と食事をし、週末はウインドウショッピングに出かける、そんな「無難な」OLだった。疑問を感じないこともなかったけれど、それはそれでそれなりに楽しかったし、自宅に帰れば両親と妹がいて、何の不都合もなかった。ただそれだけのことだ。
 でも、毎日続く無難な日々の中での、自分でも気づかずにいた、または気づかないふりをしていた小さな疑問や不満、欲求のようなものが、その時初めてゆっくりと頭をもたげてきたのだった。モデルなんて私に出来るわけないじゃないですか、と断りながら、本当に出来ないのだろうか、という声が聞こえた。シンデレラストーリーなどという安っぽい言葉が妙に真実味をもって頭をよぎったのを思い出すと、今でも少し笑ってしまう。
 今衣装係から手渡されたばかりの淡いオレンジのカクテルドレスを手に「ジュエリースギサキ様」と書かれたメイク室のドアを開けた遥は、何人かのショーモデルたちが思い思いに準備をしたりくつろいだりしているのを見渡した。空いている椅子を探して、ふと鏡の前で写真の束を整理している黄色のドレスに包まれた手に目をとめた。力強いのにどこか女らしい、美しい手だと思った。
「実紀さん!」

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